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城下町ウォッチング
(平成12年城下町ウォッチングを実施した際の資料の一部)
城下町(舞鶴市西地区)を中心とした歴史を探訪する事業の資料として製作しました。
参考資料:舞鶴市民新聞 松本節子著「舞鶴・文化財めぐり」
社団法人 舞鶴青年会議所編集
「ふるさと舞鶴再発見 どきどきワクワクおもしろアトラス」
舞鶴市郷土資料館編集「舞鶴のあゆみ」
◎古墳時代(3世紀末〜7世紀)300基こえる古墳
・S27境谷で切山古墳発見
4世紀末に築かれた舞鶴で最大の大型円墳 埋葬者女性⇒伊佐津川流域を支配
凝灰岩製組合式石棺 ⇒丹後半島の凝灰岩と推定
⇒丹後の巨大古墳の主との間に政治的関係があった?
・古代海部(アマベ)
・火(日)の神「天火明(アメノホカリ)」を先祖神とする
この地方の海にかかわる人々(漁、製塩)を「海部(アマベ)」
・5〜6世紀 大和朝廷によって海部直(アマベノアタイ)として政権内に
・6〜7世紀 凡海連(オオシアマノムラジ)として海に面する古代の郷を統治
・ 丹後、若狭の古代海人たちの国「アマベ王国」発祥の地は、
青葉山を中心とする東地域である可能性高い。
・ 大宝元年(701)凡海郷大地震で海に沈む。
・ 笶原神社 古代海部や凡海連に関わる古社
・ 朝代神社 673年創建(本殿1739年建てられる)?
※麻呂子親王(用明天皇の第三皇子)が多弥寺を開く。
※青葉山松尾寺が出来る。(708)
◎奈良時代(710〜783)
・ 天皇と皇族中心の政治へと変化 大宝元年(701)大宝律令の制定⇒中央集権政治
・ 天平文化(唐の強い影響をうけた外来の文化)
・ 加佐郡成立(現舞鶴市域と大江町域,宮津市由良
=志楽・高橋(くらはし)・大内・田造(田辺)
・凡海・志託(しだか)・有道(有路)川守・神戸)
・ 円隆寺 行基が創建
※ 行永の龍勝寺が出来る。(730)
◎平安時代(784〜1191)
* 河辺の観音寺が出来る。(786)
・ 平安京遷都(794)
・ 比叡山 最澄による天台宗 高野山 空海による真言宗(806)
・ この地方のどの寺も京都の真言寺との関係をもち、
開基、開山に朝廷とのかかわりをにおわすものが多い。
⇒これは、この地方が都にとって、ある意味をもつ地方であったことの証明。
※金剛院(829)(高岳(たかおか)親王)平城天皇第三皇子)開基。
白河天皇が金剛院塔婆(三重塔)を造る。(1082)
平多忠盛を奉行とし鳥羽天皇の皇后得子(なり子、美福門院)の御願所)
美福門院(保元・平治とつづく源氏・平家のからむ争いの
引き金をひいた人物)が、金剛院本堂をつくり、三重塔を直す。(1146)
松尾寺(海人開基、鳥羽天皇や花山法王の厚い信仰を受ける)
※志楽庄が京都宝壮厳院の荘園となる。(1159)
※八条女院(美福門院の子)の荘園となる。
(丹後国御大内郷吉田荘〈上安久等〉)(1184)
・円隆寺(奈良時代、行基が創建。平安時代、皇慶上人が開基(995)中興。
現在真言宗御室派の末寺であるが、不動・毘沙門の組合せを脇侍にするのは、
比叡山天台宗寺院の特徴で、三体本尊についた例で
円隆寺が往古、天台宗であったことを物語っている。)
・神社 加佐郡11座
(奈具神社、麻良多神社、大川神社、伊知布西神社、倭分(しどり)神社、
高田神社、弥加宜(みかげ)神社、日原神社、三宅神社、笶原神社、阿良須神社)
外 長浜の高倉神社、河辺中の八幡神社、平の八幡神社
◎鎌倉時代(1192から1333)
・ 源平の戦いで、焼かれた荒廃した南都奈良の仏像復興の大号令⇒仏師=運慶と快慶
・ 快慶作 松尾寺(阿弥陀如来坐像)金剛院(深沙大将立像、執金剛神立像)
・ その他重文 金剛院(金剛力士立像),多弥寺(金剛力士立像)、円隆寺(毘沙門天立像)
◎南北朝時代
(1333鎌倉幕府滅びる〜1338足利尊氏が征夷大将軍
〜1392南朝と北朝が統一)
※このころ朝来村・河辺村は京都醍醐寺三宝院の荘園だった。
※普明国師が余部の雲門寺を開く。(1371)
※田井の海臨寺が出来る。(1383)
◎室町時代(1338〜1467応仁の乱)
・ 南北朝期,丹後国は、ほぼ北朝側武士の勢力下。
※一色満範が丹後国守護職途なる。(1392)
・ 中世という時代は,土地制度のゆるんだ時代。⇒漂白の民が多かった。
・ 宗教の形が,多神教的な密教から、偶像を否定する禅宗に切り替わる。
⇒仏像彫刻下火
⇒禅宗の求道の場つくりを重視⇒環境としての庭や建物にすぐれたものが多く残る。
・ 時宗や一向宗のように、おどりやお題目によって仏と合一体化しようとする仏教の形は、
現世利益を求める中世の民衆にむかえられ、道端の石造物が盛んにつくられる。
(多くは阿弥陀の板碑、外に五輪塔)
・ 14世紀から西地域では、少数の真言寺を残し、
桂林寺(1401)を中心に曹洞宗に変わっていく。
※東地域 臨済禅広まる。
※仏教関係の文化財は、その寺院が、どの宗派に属するかで、二つの傾向に分かれる。
仏像に優れたものが多いのが、一般に天台・真言系の密教寺院で、禅宗寺院は、
その建造物や池庭、又、絵画や墨跡(ぼくせき)などに、
優れた日本文化の跡をとどめることが多い。
・ 階層社会の崩れ ⇒庶民生活の解放
⇒日本文化の基調になった幽玄の感覚や、ワビ・サビも形成
◎戦国時代(1467応仁の乱〜1590豊臣秀吉全国統一)
荘園の地頭として入った武士達の間で抗争。
この頃の土豪に組織される武力集団は、半士半農。
◎安土桃山時代
(1573室町幕府滅びる〜1603徳川家康征夷大将軍)
・ 1578年 細川藤孝 織田信長の命により一色氏滅ぼし丹後一円支配
・ 1580年 細川藤孝(47歳)、忠興親子により
宮津に本城、田辺、峰山に支城を築き丹後を治める
・ 1600年 田辺城籠城(関が原の合戦)
◎江戸時代(1603〜1868)260年間
・ 1600年 信濃国飯田城主京極高知が丹後に入国
伊佐津川の瀬替え 標準米収穫高123,175石検出
・ 1622年 高知死後 遺命により丹後国を3人の息子に分与
宮津藩(78,175石) 田辺藩(35,000石) 峰山藩(10,000石)
・ 1668年 京極氏但馬国豊岡へ国替え⇒摂津国から牧野親成(チカシゲ)入国
牧野氏(幕府の重臣)
親成(チカシゲ)丹後国を譜代大名領へ(幕府政策)
京都所司代
富成(トミシゲ)奏者番
英成(ヒデシゲ)奏者番・寺社奉行・京都所司代
明成(トシシゲ)奏者番
惟成(コレシゲ)奏者番・寺社奉行
誠成(タカシゲ)奏者番
・ 1727年 田辺城下町大火(家屋630軒焼失) 吉原現在地へ
・ 1732年 引土村大火(円隆寺、朝代神社焼失)
・ 1733年 享保の一揆おきる.(全藩領巻きこんだ百姓一揆、享保の大飢饉)
・ 1735年 田辺大洪水(死者400人余)
・ 1750年 三浜大火(村中残らず焼失)
・ 1756年 宝暦の一揆おきる。
・ 1783年 全国大凶作(田辺藩内困窮者多く出る。)
・ 1788年 吉原大火(全焼)
・ 1781年 田辺藩、このころ学問所「明倫斎」を開く。
・ 1836年 天保の大飢饉、田辺藩内凶作、領内餓死者多く出る。
・ 1857年 野田笛甫 藩主節成(とししげ)の懇望により帰国する。
・ 丹波街道 高野川大橋より引土、引土橋(現在の新京橋)、高野,野村寺、城屋、
真壁峠、由良川右岸,福知山、山陰街道、京都へ
・ 京街道 高野川大橋より引土,引土橋、中筋、上杉、安国寺峠、山家、由良川を渡り
立木、草尾、水谷、桧山、山陰街道、京都へ
・ 宮津街道 高野川大橋より大野辺、下福井、上福井、大船峠、中山、由良川を渡り、
和江由良、栗田、宮津へ
・ 若狭街道 城下町より二つ橋、倉谷、白鳥街道、森浜、西国橋、
市場、志楽、吉坂峠、高浜へ
・ 田辺城
細川藤孝(足利十二代将軍義晴の子?織田信長と同年)
天正8年(1580)丹後入国後 直ちに築城の計画
八田村⇒全村由良川沿岸現在の八田へ移る。
円満寺村⇒中央部が城域に入り喜多村へ移る。
天守・本丸の周囲を二の丸、
二の丸の南面(社会保険事務所あたり)に大手門、
北側に三の丸を配置し、ほぼ天正10年代(1582〜91)に完工
うのもり神社には、築城時に近いころの石垣が残っています。
自然石を積んだ「野面(のずら)積」博打岬の花崗岩を切り出す。
京極氏 三の丸をさらに二の丸の東・南・西側にも拡張して輪郭式とし、
大手門は西側に付け替えて城下町に対向させる三の丸をさらに
二の丸の東・南・西側にも拡張して輪郭式とし、
大手門は西側に付け替えて城下町に対向させる。
高知伊佐津治水工事
(工事以前は、真倉川、池内川が別流。
現在の笠水(うけみず)神社付近で高野川と合流。
⇒真倉川と池内川を合流。⇒伊佐津川、伊佐津村誕生。
一本松地蔵)
牧野氏 入封時に櫓門・石垣を改修
(寛文10年1670年ごろには後世の田辺城の偉容が整う)
家臣団は、京極氏時代 城内および城下町各所に住居
牧野氏時代 上・中級藩士が城内に住み
下級藩士(足軽)は
城下町外側の京口・松陰・宮津口長屋に配される
安政6年(1859)
家臣数 知行取182人、切符取87人、徒士19人、足軽239人
合計527人
人口
1721年 32,166人
1750年 37,951人
1756年 38,371人
1837年 40,559人(内全町方6,360人)
1859年 50,698人
(家中2,455人、百姓39,941人、町方7,075人、
寺社・山伏411人、その他816人)
築城とともに、領主は城の西北側に町屋建てをし、
若狭小浜その外から商工業者を地子銭免除して誘致したので、
ここに田辺城下町が誕生。
城下町は当初の本町・職人町・魚屋町・丹波町・平野屋町・竹屋町・漁師町から、
その後しだいに繁栄して、
高野川西側に、寺内町・新町・西町・紺屋町・堀上町・引土新町・朝代町・引土町、
城の東側に大内町、
城の北側の下安久村海岸へ漁師町が移転して改名した吉原町などが生まれ、
16か町になった。
高野川西の町筋は複雑で、西山山麓の寺院配置とともに、
田辺城の防衛線として意識されたものらしく、寺の配置に」ともない
つくられていったものと考えられる。
これに比べて、高野川」を挟んだ東の町場は、
南北の道を主軸として整然と造られていることから、
経済的な効果を期待した城下町としてつくられたものとみられる。
○ 瑞光寺 細川幽斎の働きかけでひらかれた寺。
本尊(木造阿弥陀如来立像=鎌倉時代作)
◎明治時代(1868〜1912)
○ 明治改暦の年、
勅使(西園寺公望が山陰道鎮撫総督)の本陣となった村田家
及び供衆の宿泊先は城下町を代表する商家と瑞光寺。
村田家(村田兵左衛門屋敷は、今の丹波町通りと広小路通りの西角一帯
⇒のち旅館「山 」となる。
本町 ⇒西野嘉右衛門、金村仁兵衛
魚屋 ⇒山中四郎三郎、武内孫八郎、藤屋五郎左衛門、丹波屋又左衛門、
大坂屋半右衛門、富田屋弥兵衛、船登屋孫左衛門
丹波町 ⇒越後屋万助、今安徳蔵、鳥屋吉郎兵衛、白杉屋市兵衛(土井市兵衛)
田辺屋六兵衛、黒井屋治郎兵衛
平野屋町 ⇒麹屋忠兵衛、山中吉右衛門、船屋惣右衛門、大屋源助、苧屋兵助
竹屋町 ⇒延寿院、志高屋藤左衛門、村田喜左衛門、近藤久兵衛、野村源兵衛門
和泉屋孫右衛門、田中嘉左衛門、逸見与一左衛門、
林田六兵衛、池野屋吉左兵門、
鍋屋甚兵衛、壷屋喜兵衛
計33軒と瑞光寺
○ 審致舎(現NTTと西郵便局)
牧野氏別邸。明治の鎮守府開庁後は、国の重要人物が集う。
旧藩士の窮状を救う商社(M4、旧藩主自ら資金を積んで設け、鉄、綿、糸等を売買)
外に今の銀行と消費組合を兼ねた。⇒明治14年閉店
有本国蔵 平野屋町で生まれ(1860)12歳で審致舎に丁稚奉公 後年大実業家。)
昭和14年取り壊し
○ 伊藤集吉(1840年宮津口にて誕生)海軍中将
明治2年29歳で東京築地海軍操練所創設と同時に出仕
明治5年海軍中佐 この間各艦の艦長、副艦長歴任
明治11年38歳 海軍大佐、兵学校校長
明治18年45歳 海軍少将、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次官
明治19年 艦政局長
明治22年49歳 海軍参謀部長
明治23年50歳 海軍中将、海軍次官
明治27年 日清戦争 戦役軍功顕著⇒男爵を特授される
明治40年日露戦争後翌年退役
※舞鶴出身で爵位を受けたのは、牧野家と伊藤集吉のみ
・ 1871年(M2)廃藩置県、舞鶴藩は、舞鶴県となる。
・ 1873年(M6)明倫小学校ができる。(初めて、学校所として町民に開放)
・ 1879年(M12)加佐郡役所を、舞鶴に置く。
朝代遊郭、堀上の近藤寅太郎の尽力で創始。のちS33公娼制度廃止まで続く。
妓楼(ぎろう)38戸、芸娼妓約200人、
最盛期M34第4海軍鎮守府開庁時。
南北62間、道幅2間2尺、鳥居前東西25間、道幅2間半。
・ 1889年(M22)市町村制実施で舞鶴町誕生。
・ 1896年(M29)大暴風雨、舞鶴町の大半が浸水する。
・ 1901年(M34)舞鶴鎮守府開庁(初代長官に海軍中将東郷平八郎就任)
・ 1902年(M35)余部町誕生。
・ 1903年(M36)碁盤目状の市街地(浜)の東西に走る通りに軍艦の名がつけられる。
・ 1904年(M37)舞鶴線(福知山〜新舞鶴間)開通
・ 1906年(M39)新舞鶴町誕生
◎大正時代(1912〜1926)
・ 1913年(T2)舞鶴築港記念全国博覧会開催される。(入場者156,029人)
・ 1919年(T8)余部町は、中舞鶴町と改称
・ 1922年(T11)新舞鶴〜高浜間鉄道接続し、敦賀まで全通する。
・ 1923年(T12)郡制廃止、舞鶴鎮守府、要港部に格下げになる。
裏日本鉄道全通・新舞鶴港記念博覧会開催される。(入場者179,000人)
・ 1929年(T13)宮津線全通する。
冠島「オオミズナギドリ」天然記念物に指定
・ 1925年(T14)東西舞鶴間バス運行
◎昭和時代(1926〜1989)
・ 1937年(S12)再び舞鶴鎮守府になる。
・ 1938年(S13)舞鶴築港竣工
舞鶴市・東舞鶴市それぞれ誕生
・ 1943年(S18)舞鶴市・東舞鶴市合併
・ 1945年(S20)舞鶴港、在外邦人引揚港に指定
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