舞 鶴 百 撰 |
■中心市街地 (西山山麓一帯を除く)へ |
■中心市街地周辺へ | ■TOPへ戻る |
西山山麓一帯 | ||
1 | 慈恵山 円隆寺 |
真言宗御室派の末寺であるこの寺は、奈良時代に行基が開き、平安時代に皇慶上人が忠興した古刹。往時は、知恩院、成就院、理正院、吉祥院等七十坊を擁する大規模なものであったが、一五九五年の山崩れで知恩院など四
坊を残すのみで他は壊滅した。 本堂・総門・多宝塔・鐘楼・鎮守堂(いづれも府指定文化財) からなり、本尊は、三体一具の木造阿弥陀(丹後国で最大)・薬師・釈迦如来坐像いづれも重 要文化財で平安時代の定朝の作出である。 |
2 | 朝代神社 |
朝代神社は江戸時代から田辺藩町方の産土神で、今も氏子は旧舞鶴町全域に及びます。享保十 七年(一七三二年)の大火で、記録を消失しましたが、「丹後田辺府志」には「朝代大明神は 日の若宮なり、日本紀に伊弉諾尊と称し奉る」とあります。社伝によると天武天皇元年(六七 二年)淡路島より御分霊を奉還したと伝えられていますが、昭和三年に府社となっています。 社殿は元文四年(一七三九年)に再建されたのが現在の社殿(市指定文化財)で、市内の神社 建築では最も古い部類に属し、独特のものをもっています。 秋祭には、吉原から太刀振り(府指定無形文化財)や、平野屋の太神楽が奉納されるほか、各 町から芸屋台、太鼓やぐらが出るのを例としました。江戸末期の「祭礼絵巻」に当時の賑わい がしのばれます。 |
3 | 千野宮神社 |
この神社は、「火除けの稲荷」、「商売繁盛の稲荷」と言われていますが、特に、「雨乞いの 神」として霊験あらたかと伝わっています。「今日は、千野宮のお稲荷さんの日やで、雨が降 るやろ。けど、ようけは降らへん。」といわれ、この稲荷を祀ると必ず雨が降った。と、言い 伝えられています。 又、大正七年寄進の鳥居から大正時代の好景気をうつした朝代界隈の賑わいをうかがわせて います。 現在、この稲荷は、引土新自治会がお護りしています。 |
4 | 妙光山 本行寺 |
当寺は室町時代の後期、後奈良天皇の弘治二年(一五五六)に京都西陣法華宗総本山本隆寺、
第六世證誠院日雄聖人によって開かれた寺で、城主京極丹後守高知公の菩提寺です。 創立当初は開基 那である安久兵左衛門氏領地の安久にありましたが、城主の外護により慶長 六年(一六〇一)の冬、現地に移建せられ、現在に至っています。 京極家の菩提のため拝領した妙光山の一部を霊園としており、境内には本堂の他、高知公の奉 納せられた由緒ある尊像を祀る「福大黒天」、樹齢数百年を経た枯木の又に安置された地蔵尊 を祀る「木の又地蔵尊」があります。 |
5 | 天香山 桂林寺 |
応永八年(一四〇一)の開創。江戸時代に三十四カ寺を末寺に持つ曹洞宗中本山の名刹で、鎌 倉時代後期の八角型の石灯篭(国指定重要美術品)を所蔵する。 田辺城篭城の際、当山六世の 大渓和尚は弟子らと共に馳せ参じ、大活躍。その功績に対し、幽斎の子、忠興は絹本著色仏涅 槃図を寄進した(市指定文化財)。 |
6 | 笶原神社 |
天平勝宝元年頃に創設されたと伝えられる古社。 祭神は天照皇大神、豊受姫神、月夜見神。 合殿に清和天皇、宇多天皇が祀ってあり、かつては魚居社(まないのやしろ)とも呼ばれ、古 代海部(あまべ)や、凡海連(おおしあまのむらじ)に関わりを持つ。 |
7 | 玉秀稲荷神社 |
瑞光寺本堂裏に祀られていた一小社が玉秀稲荷神社の前身で、天保七年(一八三六)廃社とな っておりました。 明治七年(一八七四)町内の信仰の厚い有志が中心となって再興をはかることとなり、京都伏 見稲荷神社に勧請願いの申請を行い玉秀大神玉と神号を授かり、島崎の地に畑四十坪を買い受 け、社殿を造営し奉祀されておりましたが、大正五年一月現在の地に同社を遷座、昭和期には 改修を重ねるなど今に至っております。 現在は、寺内自治会がこの神社をお護りしています。 |
8 | 不動如山 瑞光寺 |
開山の明誓は、三男正儀楠正成の流れを引く人で俗名を楠源吾といい、武芸に秀でていたにも かかわらず、浄土真宗本願寺十一代顕如上人について得度。その名声を聞いた幽斎は、忠興の 師として明誓を招き、末娘さちをめあわせ瑞光寺を建立した。それに応えて明誓も田辺城篭城 に参加し、楠家に伝わる夜戦の法にて勝利を得たという。瑞光寺には寺宝として正成の筆にな るという「梅宮御護」と書かれた旗織が伝わっている。表門は田辺城の黒金門を移したもので ある。 |
9 | 金刀比羅神社 (新町) |
この金刀比羅神社は新町構いで、祀りはじめは江戸時代にさかのぼります。 讃岐国(今の香川県)の琴平宮を本宮とする金毘羅信仰は、江戸時代に非常に盛んになり、海 難救助・商売の守護神として全国に勧請されました。嵐に翻弄されて、あわや船が沈むまさに そのとき、金毘羅さんの御幣が降ってきて、助けていただけると信じられていました。 この金刀比羅神には、玉垣の寄進者名に吉原町の人たちの名が数多く刻まれており、漁師たち の信仰が厚かったことがわかります。 街道筋にあたるここ新町・西町には旅館が多く、旅籠(はたご)町と呼ばれていました。特に 新町は、十一軒の大きな旅館が軒を連ねていて、旅の無事と商売繁盛を願って、町ぐるみで金 毘羅さんをお祀りしていました。 明治二十九年の山崩れでお社が壊れ、昭和六年に再建されたのが今の社殿です。又、右のお社 は、江ノ島の弁財天で、美しくふくよかな弁天像が祀られています。 |
10 | 随心山 浄土寺 |
この地方の浄土系寺院の中でも古い起源をもつ浄土宗の寺院。江戸時代に田辺藩政に関わる有 力な寺として位置付けられていた。 昭和二十一年の火災で、山門だけを残し本堂などは焼失したが、今に残る山門(鐘楼門)は二 層の楼門につくり、上層を鐘楼としておりこの地方ではめずらしいもので、鐘楼に下げられる 鐘には、時の住職三誉(團仲)上人が、記憶にある限りの寺の歴史をその鐘銘にとどめている 。 |
11 | 長久山 妙法寺 |
当山は長久山妙法寺と号し、日蓮宗であります。元亀三年(一五七二)佛乗院日賢上人此の地 に庵室を営み法華経を読み衆生を教化して居りました。 偶々、太守細川幽斉公数人のお供を連れて庵室に入り来り、太守曰く 上人は法華の持者にし て衆生を教化し且つ狂歌を能くすと それ実ならば一首を聞かんと「世の中は風呂や柄灼によ く似たり 入るときばかりは我がものにして」太守歌の意味面白しと感悦し、当山の山林境内 約一万坪の寄贈を受け、当堂は再三建立したが此の本堂は文久二年(一八六二)の建立総欅造 りであります。 |
12 | 龍詣山遍照院 見海寺 |
当山は、源誉上人により延宝年間前(一六六〇年)に開山されました。 山門は、田辺城内の門の一つを移築したと言い伝えられています。 浄土宗寺にはめずらしい境内仏堂として恵比須堂があります。現存する古い棟札には、元禄五 年(一六九二年)の「奉造立夷大明神一宇」と恵比須堂造立の記録がみられます。本尊として 祀られる恵比須神像は、漁民の守護神として豊漁と海上安全を祈っています。 学者でした。文政九年(一八二六年)二十八歳の時清国商船得泰号の漂着事件で清人と筆談、 その学識を天下にとどろかせ、「丹後田辺に過ぎたるものは、時の太鼓と野田希一」と東海道 の馬子唄にまでうたわれたほどの人物でした。 |
13 | 瀧谷山 来迎院 松林寺 |
浄土宗 創建 承平三年(九百三十三年)元は、建部山来迎院笛原寺といい(建部山中にあっ た)天台宗の寺院であった。戦乱の世となりしばしば建部山中も戦乱の巷と化し仏具什器など 収奪される故、応永の初め(一三九四)に当地瀧谷山に移建される。 その後、京極高知公の伯母君が当山に帰依され、元和八年(一六二二)にご逝去され当寺に葬 る。この方の法名を松林院殿と号し、これにより以後松林寺と名乗る。 良弁僧正の母子作親子対面観音像を祠る。 |
14 | 海岸山 見樹寺 |
見樹寺の山は、中世室町時代(一四六〇年頃)愛宕山北支城として、山地を削り、平場になら し、宿営建物・倉庫を整えた。高い石垣は、二度崩落し、現在のような二層の形に構築され、 手前に堀があった。 馬術訓練のため、馬の歩幅にあわせた石段は、関西でも貴重な遺跡である。台地の深さ六米の 大井戸と下の御井戸は現在でも涌水量は豊富である。山の中腹には、海岸の岩石を運んで積み あげた郭が残っている。 宮津街道への要衝として陸路・海路の重要な位置を占め、田辺藩三番所(京口・宮津口・若 狭口)の一つ、宮津口番所があった。現在でも、京口・宮津口の地名をそのまゝ字名として呼 称している。 |
■中心市街地(西山山麓一帯を除く)へ | ■中心市街地周辺へ | ■TOPへ戻る |