TOPへ戻る
平成十八年 第十五回 まいづる細川幽斎 田辺城まつり 前夜祭

市民リレー講談
「田辺城籠城の一席」


日時:平成18年5月27日(土)
場所:舞鶴市民会館


この台本は、平成四年創生一億円事業により
田辺城大手門の完成を祝うイベントとして、
「第1回まいづる田辺城まつり」が開催されたおり、
前夜祭の目玉イベントの講談用に田辺城籠城の史実を基に創ったものを、 
今回まつりが15回を迎え
市民から講談師18人を公募し講談を行うにあたり、編集し直したものです。
編集にあたり、
舞鶴地方史研究会様には多大なるご協力を賜り厚く御礼申し上げます。

又、この企画が大成功をおさめたことに際し、
講談師を努めていただいた市民の皆様には心より感謝申し上げます。

     平成18年5月27日

         第15回 まいづる細川幽斎 田辺城まつり実行委員会
                                実行委員長 松本 昭司

田辺城籠城は、
  関ケ原の合戦を左右した戦いであった。
そして、武家社会のなかで忘れられていた
      天皇と公卿の意地を示した戦いであったかもしれません。

 三成 大坂にて挙兵 ガラシャ 人質拒み自害
   一万五千の兵 田辺に進軍 迎え撃つは 兵五百余
                        幽斎 田辺城籠城を決意
 その時 朝廷が動く
  古今伝授とは、
   楠正成兵法「三段の備え夜襲攻撃」とは、 稲富鉄砲いぬき玉とは、


第一幕 起 (講談師:吉田 修)
 
時は、慶長五年、西暦一六〇〇年、七月末この丹後の国において、
この後おこる関ケ原の戦いを左右する戦いが繰り広げられました。

七月十八日 早朝、丹後の国の本城、宮津城に飛脚が、
おおあわ慌てで駆け込んできました。
「大殿!大殿!一大事です!」
「何事じゃ、朝から騒々しい。」
「石田光成様が、家康殿を討つと兵をあげ、
徳川家に味方する大名の奥方を人質にせんとした様子、
我が奥方様は、人質を拒まれ、館に火を放ちご自害なされました。
また、細川一統を成敗せよと、諸侯に書状が回ったよしにございます。」
「それはまこと真か。」

第二幕 時 (講談師:山本 公彦)

この事件が起こる二年前、
豊臣秀吉が、六十三歳でこの世を去りました。
この時、世継の秀頼は、わずかに五歳。
天下の勢力は、自然と実力のある家康に集まりました。

「家康は豊臣家をなきものにしようとしている。家康を倒さねば!」
石田三成は、武将たちに相談しました。
宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、島津義弘、大谷吉継などの大名は
賛成してくれましたが、
秀吉に一番恩を受けた
加藤清正、福島正則、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政
などの大名は、
三成が憎い一心で家康につきます。

石田三成は、会津の上杉景勝とはかり、
上杉が会津で兵をあげて家康をおび誘き寄せ、
そのすきに大坂で三成の軍が兵を挙げ、
家康を挟み討ちにするという作戦を考えます。

家康は、六月十六日 七万の大軍をひきいて会津に向かいます。
実は、家康、
上杉景勝と石田三成が、裏でしめしあわせていることを知っていました。
その為 石田三成が、旗揚げすると すぐとって返し、
上杉に対しては、奥州の伊達政宗に攻めさせました。

ここに天下分け目の戦いが起こったのです。

第三幕 系 (講談師:松本 昭司)

話は丹後に戻り、
細川幽斎、忠興親子、ガラシャたちはどうしたか。
幽斎は、末期の室町幕府に長く勤め、有職故実に通じていました。
将軍足利義昭に仕えていましたが、
その人間性に限界を感じ、義昭を見限り、織田信長につき、
以後、織田軍団にあってその地位を高めていきました。

一五八十年 天正八年、 信長の命により 丹後の国は、
幽斎・忠興親子の所領となり、
宮津に本城、田辺、峰山などに城を築いたのでした。

田辺城は、本丸を囲んで二の丸、三の丸に堀をめぐらせ、
東に伊佐津川、西に高野川、南は湿地、北は海と、
要害の地に築かれ、守るに固い城でした。

細川ガラシャは、本名を「たま」といい、明智光秀の娘。
十六歳で忠興と結婚し、
後にキリスト教の洗礼を受け「ガラシャ」となりました。

天正十年、一五八二年六月二日、
明智光秀が、叛旗をひるがえし、
織田信長を本能寺で討ちました。
しかし、光秀の天下は、長くは続かず、
豊臣秀吉にその座を奪われます。

細川忠興は、即座にガラシャを丹後の「みどの」にかくまいました。
幽斎は、家督を忠興に譲り 髪をおろし「幽斎玄旨」となり、
隠居の身となったのです。

その後、秀吉の世がつづき、
秀吉五十八歳の時に秀頼が生まれ、世継問題が起こります。 
この時、
忠興は、秀吉の実子の秀頼ではなく、
養子の秀次の味方をしたといわれて 
秀吉の怒りにふれますが、
間に入った家康に助けられます。
これ以後 忠興は家康と親交を深めていったのです。

第四幕 散 (講談師:於久田 堆) 

話を戻し、一六〇〇年、六月はじめ、
家康は、会津の上杉征伐の号令をかけました。
そして参加する諸侯には、
家族は大坂に残し、大坂方に忠義を示すよう言いつけます。
これは、家族をとって大坂方につくか、
家康に忠誠を誓うかをせまることになりました。

この時、細川忠興は、ガラシャに
「よいか、たま。絶対に屋敷をでるな。
三成の人質になるな。
もし、そのようなときには自害しろ!」と、
きびしく言い渡しました。

七月十七日 石田三成がとうとう兵をあげました。
三成は、ただちに会津征伐に出陣した大名の屋敷に、
人質を取りむかいます。

大坂玉造の細川屋敷にも兵が押し寄せ、
ガラシャに人質になるよう迫りました。

ガラシャは、家老の小笠原少斎を呼び、
「少斎、わらわは、殿に人質になるな、自害せよ、
 と言い渡されております。
 しかし、キリストの洗礼をうけているわらわは、
 自害することを許されておりませぬ。
 そちは、殿にこの様な時いかがするか聞いておろう。」

少斎は、「ごめん御免。」と声をかけると、
なぎなたでガラシャの胸を突き、
屋敷に火を放ち、
自分も自害して果てたのでした。
この時、ガラシャ三十八歳。
聡明な美しさで知られたガラシャの壮絶な死でありました。

第五幕 承 (講談師:小林 義雄)

ここで、話は、一番最初の場面に戻ります。

七月十八日、
宮津城にいた幽斎は、三成挙兵のしらせ報を受けました。
三成が、家康についた細川成敗の為、
丹波の武将に出陣を命じたことを知り、
幽斎は、国中に檄をとばしました。

「三成勢が攻めてまいる。寡勢なれど、たちむかおうぞ。
 よいか、急いで国中の武具弾薬を田辺の城に集めるのじゃ!
 宮津、久美、峰山の城は、敵に渡さぬよう焼いてしまえ!
 田辺の城を守りぬくのじゃ。」
幽斎は、小早舟で田辺にむかい、
籠城の支度に取りかかります。

城下の瑞光寺の住職明誓と桂林寺の住職大渓などのお坊さんたちは、
いち早くかせい加勢を申しでました。

幽斎おおいに喜び
「おお、よくぞ申してくれた。そち達の加勢心強く思うぞ。
この度の籠城、決死の覚悟じゃ。」

そのほか百姓、郷士、町人の志ある者も馳せ集まり、
「我らも加勢致します。
なんなりと御用を仰せ付け下さい。」と願い出たのでした。

宮津、峰山の藩士を含めその数五百に達しました。

第六幕 侵 (講談師:米山 隆一朗)

七月二十日、敵は、国境まで乱入。
総大将は、福知山城主小野木縫殿助、その数一万五千。
 
七月二十一日、平野におりた兵は、
田辺城を取り囲み城攻めにかかリます。
城より半里のところまで進み、あたりを焼き払い、
鉄砲を盛んに撃ってきます。

これに対して、
城からも福井の村、伊佐津の村、公文名の村へ出撃。
激しい戦いとなり、味方にも死傷者がではじめました。

これを聞いた幽斎は、
「少なき味方なれば、数減らすは、得策にあらず、早々に引くべし。」
と使者を出し、引揚させました。

しかし、その夜は、城から夜襲をしかけ、
寄せ手を福井の村から追い払ってしまいました。 
まず、緒戦は細川方の勝利となったのです。 

七月二十二日、朝、敵は銘々陣取りを定めた様子。
敵が近づくと、幽斎は、
「城へ近づけるな!おおづつ大筒を見舞え!」と命じ、
大筒をうち続けさせました。

翌二十三日朝、
西の方、大橋の向かいにつくられた味方の総構えに小野木の軍が、
大勢攻めかかり、鉄砲を撃ってきました。
城からも、大橋の向かいまで出て、撃ち返しましたが、
支えきれず後退をはじめました。
その橋の長さ二十間余り、
敵の進攻を食い止めるため、橋板を外していると、
敵は橋向かいの民家に入り込み、
戸口や格子窓から鉄砲を激しく撃ちつづけます。


味方はたまらず、
川岸に引き上げてあった舟や橋のそばにある石垣にかくれ
撃ち返しましたが、死傷者多数を出してしまいました。

この報が、軍議を開いていた幽斎にも届きました。
血気盛んな城士二人が、応援を願い出ましたが、
幽斎さわがず、
「そなた達の申し出有り難く思う。
 しかし、兵法に
  「衆を以て寡を撃つは順なり、寡を以て衆を撃つは逆なり、
            一車薪の火を一杯の水にて消すが如し」とある。
   虚を見て進み、難を知れば退く事こそ、兵法の要なり。
   使いをやって引き揚げさせよ。
   今日ぜひと戦い、勝負を決するにあらず。
   この度は、ただ、
   越中守 帰陣まで持ちこたえ、時を稼ぐ事じゃ。
   敵を引き寄せ、鉄砲を撃つべし。
   確実に撃つことできれば、戦う度に利を得ること疑いなし。
   弾薬は充分じゃ、勝つことなくとも、負ける事はあるまい。
   よいか!皆の者、
   この事しかと肝に命じよ。」
と、伝令を走らせ、それぞれの持ち場の守備を命じたのです。

城兵の撤退を見た寄せ手の軍勢は、
「あれを見ろ!籠城の臆病者らが、城に引き揚げていくわ。」
と雑言を吐いたり、盛んに勝どきを上げたりしました。

第七幕 襲 (講談師:山尾 路明)

城内の血気にはやる若者達は、
堪えきれずに出撃を願いでましたが、
幽斎は、これも制して守りを固めようとしました。

その時、夜襲を願いでる者がありました。
幽斎も夜討ちなればと思い、軍議にかけます。
脇にいた瑞光寺住職明聖が、進み出て、
「この者が言うのも一理あります。
 この度は大軍相手の戦いなれば、
 策なくては人数を損なうばかり、
 されば今宵、
 わが先祖楠正成が伝える三段の備えによる夜襲を行えば
 確かな効があると存じます。」
幽斎は、この瑞光寺明誓の献策を受け入れ
三段備えの手勢と火付け役を編成。

この夜襲軍は、城を出て風上に回り、ほら貝を合図に放火。
一度に焼けあがるのを見て、
ときの声も勇ましく町家へ討って入り、
寝ている敵兵に襲いかかったのです。

火は、町中に燃え広がり昼の様な明るさとなりました。
城への飛び火はありませんでしたが、
町家はことごとく焼けうせてしまいました。

敵は、大橋を越え、からめて門まで押し寄せますが、
これを三段の備えの手勢が急襲。
敵は壊滅。
味方はなおも追撃し、大勝利をおさめたのでした。

第八幕 反 (講談師:広瀬 邦彦)

夜襲の一夜が開けた七月二十四日、
大敗をきっした敵ですが、多勢をたのんで、
朝には城の周囲をひしひしと取り囲んでしまいました。

この日は、敵味方鉄砲を撃ち合い、
暮れ方、敵はほら貝の合図で一斉に城めがけて撃ってきましたが、
玉は、さほど城には届かず手負いはありませんでした。

その夜、城の南西、四町足らず先の「柳の水」と呼ばれる池で
多数の松明をともす敵の不穏な動きがありました。
城内では、
昨夜のこともあり今にも反撃してくるのではと騒ぎはじめましたが、
幽斎は、
「皆の者、落ち着くのじゃ。あの様子では、すぐには攻めては来ぬ。
 何やら城攻めの用意をしておるようじゃ。
 今宵は明日の敵襲に備え非番の者は、休息を取るように。
 よいな。」
と命じたのでした。

翌朝、
幽斎の読み通り池のあた辺りに二町余りの高い塀が姿を現します。
巳の刻(午前十時)、
小野木勢が、大橋を渡って本町筋を通り、
からめて門の際まで攻め上がってきました。

しかし、堀の橋はあらかじめ引いておいたので
敵は渡れずその場で足止め。
この様子をみて、北村甚太郎、松山権兵衛、
からめて門を見下ろす大草櫓から鉄砲を撃ちかけると、
敵は堪えかねて敗走。

未の刻(午後二時)
今度は大手門に大勢攻めかかってきました。
これに対しても城中から鉄砲にて応戦。

敵はこの日、攻め潰さんと盛んに攻めてきましたが、
城の守りが堅く 日が暮れた頃、潮が引くように引き揚げたのでした。

この日以来、寄せ手は平攻めに攻め潰すことを諦めたようです。
城の周囲に竹矢来を編み立て、包囲戦に転じました。
食料を絶って干殺しにしようとの作戦です。

これを見た幽斎、ニンマリ笑って、
「これなら何とか凌げそうだ。
 相手が力攻めに攻めを重ねるならともかく、
 この程度の攻撃ならしばらくは時を稼げる。
 城の周辺へは近づきがたい。
 鉄砲で射すくめ、城に取りつくのを防げばよい。」
と独り言。

第九幕 報 (講談師:山本 治兵衛)

こうして幽斎が防戦している間
西軍の挙兵の報がようやく江戸の徳川家康のもとに届きます。

七月十七日、ガラシャ自害。

翌十八日に丹後の幽斎に報が届く。

二十日に西軍、田辺に侵入。

この三成の挙兵の報は、二十日に家康に届いたのでした。

翌日、宇都宮に着いていた細川忠興にも報が届きます。

二十五日、小山で軍議がおこなわれ、
家康は上杉攻めを中止して引き揚げを決定しました。

田辺の城はまだ当分、
独力で西軍の包囲に耐えなければならなかったのです。

第十幕 技 (講談師:山下 武志)

七月二十六日、
敵は竹束を持って攻撃をしてきました。

この時代の鉄砲よけにもっとも効果があったのが、この竹束。
青竹を長さ八尺、幅四尺に縄で束ねたもので、
これには通常の玉は貫通せず 
敵は平然と竹束を突き立て襲いかかってきました。

幽斎は、この様子に大筒を使うよう命じると
城中に残る四人の稲富鉄砲の弟子のうちの一人を招き、
竹束に対抗する策を聞きます。

「いぬき玉というものがあります。これなら竹束をも貫きましょう。」
と、このいぬき玉を幽斎に見せました。

幽斎大いに喜び、
「よし、さっそく皆にその玉で撃たせよ。」

敵は昼となく夜となく攻めてきましたが、
いぬき玉を使うようになってから、
死傷者が多数出始め 容易に攻めてこなくなりました。

もともと寄せ手は地侍をかり立てた寄せ集めの軍勢、
犠牲を出してまで決戦する勇気はなかったようです。

小野木縫殿助の主力以外はさほど恐れるに足りぬ、と幽斎は判断。
このような攻防が繰り返され 
八月中旬まで双方にらみ合いが続きました。

第十一幕 囲 (講談師:堀江 洋一)

籠城には平常心が必要と、
幽斎は、悠然と和歌などを詠んでみせていました。  
そして、毎日、城内をまわり、皆を安心させるのを忘れませんでした。

一方、幽斎夫人の麝香も、具足をつけ、
夜になると城内をまわって、兵士たちを気遣いました。

夫人の心遣いは、侍どもの心を奮い立たせずにはおきませんでした。
又、寄せ手の地侍のなかには、
密かに城中に心を寄せ、わざと空砲を撃ったりする者もありました。
この者達の陣には攻撃しないなど、
敵にまで心遣いを示す夫人に士気はますますあがりました。

慶長五年の八月十五日、
太陽暦に直すと九月二十二日、秋風が吹きはじめた頃、
寄せ手は、この戦いで初めて大筒を使いはじめました。
三百もんめ匁の弾丸を発射する二挺の大砲。

これを東西に据え、
西は本町筋から大草櫓を狙い、
東は二ツ橋の橋際から也足櫓を砲撃。
西からの砲撃は、小野木の一手によるもので最後には、
大草櫓の壁を打ち砕きました。

第十二幕 伝 (講談師:加藤 晃)

さて、京都の朝廷の動きはどうだったか。
幽斎が討ち死にの覚悟であると
皇の弟・八条宮智仁親王から聞いた後陽成天皇は、

「彼の者が討ち死にするならば、
 古今伝授の伝統が途絶えてしまう・・・」

ことの大きさに気づいて、愕然とされました。
そこで、親王を通じて勅を下し、
幽斎に城を明け渡して身をまっとうするようにと勧告されたのです。

幽斎は、三条西実枝から「古今伝授」を受けた当代唯一の歌人でした。
「古今伝授」は、「古今和歌集」の奥義の伝授をいい、
この当時、これを保持していたのが細川幽斎ただ一人でした。

時の天皇、後陽成天皇は、
武家政治を倒し古の「天皇親政」の復活の志を持たれており、
秀吉亡き後の武将達の騒乱をこの期と見定め、
「天皇親政」の軍を起こすことまで考えられました。

しかし、今更、天皇という御旗を掲げなくても
自力で充分天下が取れる時代であり、
「天皇御親政」などという厄介な拘束をだれも望みませんでした。

「天皇親政」の志を断たれた後陽成天皇にとって、
武士同士の戦いで「古今伝授」が絶えてしまうのは、
耐え難い事態でした。
なんとしてでも幽斎を救い、
「古今伝授」の絶えるのだけは避けようと思われました。
武家同士の戦いに天皇の意地を示されたのかも知れません。

第十三幕 授 (講談師:酒井 春夫)

七月二十七日、
八条宮の家老・大石甚助という者が御書をもたらします。
幽斎は、大石に対面しましたが、
和を乞うて城を明け渡すのは武士の本意ではないといって
和睦を辞退します。
しかし、古今伝授のことは大切だったで、使者を通じ、
古今伝授の覚書を収めた箱に証明を書き添え、親王に献じました。

そのときに添えられた和歌一首。
   「いにしえも今も かわらぬ世の中に
        こころのたねを 残すことのは」

これで幽斎には心に残ることは何もありませんでした。
天皇は、それでも諦めきれません。
幽斎に拒絶されて、かえって意固地になられたようです。

つぎには、幽斎の弟 大徳寺の玉甫紹j和尚へも
幽斎を説得してくれるようひそ密かに打診をされましたが、
彼は、固く断りました。

「越中守忠興は関東へ出陣しております。
 留守をあずかる幽斎は二心なきことをしめすため、
 討ち死する覚悟と存じます。」

さすがに、兄弟だけあって幽斎の心を察していました。
さらに天皇は、
京都所司代の前田玄以に田辺の囲みを解くよう勅使を立てました。

勅命には背けず、
玄以は、次男・茂勝を田辺に派遣して和議を勧めましたが、
幽斎はなおも応じませんでした。

第十四幕 繋(つなぎ) (講談師:池田 里菜)

この間、城中では、
忠興から遣わされた使者が何度か城内に潜入しており、
おぼろげながらも外部の様子を知っていました。

八月三日、
東海道を引き返していた忠興から三島で書状を託された二人の者が、
越前をまわって、
勝手しった海辺の「安久」あたりから夜半に城に忍び入りました。

他にも何度か田辺に潜入して、
忠興の手紙を届け、外の情勢を報告していました。

第十五幕 勅 (講談師:川瀬 裕)

八月二十二日 夜明け、
木曽川で石田三成西軍と徳川家康東軍が、戦いを始めます。
これは、先鋒軍の戦いで、家康はまだ江戸にいます。

九月一日、
やっと家康は、江戸を出発、
三万三千の兵を連れて東海道を下りました。

田辺の籠城は、この間二ヶ月に近づこうとしていました。

九月十二日、
中院通勝、三条西実条、烏丸光広の
三人の公卿が勅使として田辺に現れ、改めて停戦を命じました。

いずれも、和歌において幽斎の弟子で、
三人も遣わされたのは、
敵の謀略でもないことを納得させるためだったと言われています。

案内を務めたのは、丹波亀山城主の前田茂勝でした。
正式の勅使とあって、小野木縫殿助もかしこまって、兵を引きました。

第十六幕 開 (講談師:荒井 晴美)

ともあれ、勅使を受けて、ついに幽斎は城をあけました。

そして、籠城の面々を懇ろにねぎらい、
屋敷を焼いた者には材木を与えるなど気を配りました。

奮戦した桂林寺の大渓和尚たちは、
大得意で凱歌をあげながら寺へ帰っていきました。

九月十三日、幽斎は、後の始末をつけると、
前田茂勝の丹波亀山城に移りました。

九月十四日、徳川家康、大垣に到着。

そして、九月十五日 
天下分け目の関が原の合戦が行われ、
徳川家康の東軍が勝利をおさめます。

つまり、あと三日持ちこたえればとは、後になって言えること。
関が原の戦いに
この西軍一万五千が加わっていたなら
歴史が変わっていたかもしれません。
この田辺籠城の重みを一番しっていたのは徳川家康でした。

九月十八日、
関が原の戦いを終えて近江八幡まで兵を進めていた家康は、
忠興に幽斎の功績を賞し、その救援を命じます。

忠興は、直ちに兵を率いて出発し、
十九日に近江から山城への国境を越えました。
ここで田辺からの使者と出会い、
はじめて田辺の開城と幽斎がすでに亀山に移っていることを知ります。
忠興は、そのまま亀山城へと道を急ぎました。

九月二十日夜明け、
亀山城に近い馬堀村まで来たとき、
幽斎が輿に乗って現れ、
一言。「来たか」
相変わらず、幽斎は、包み込むような微笑を見せただけでした。

第十七幕 後 (講談師:川崎 慎太郎)

忠興は、血の気の多い殿様でした。
心中、田辺の開城が早すぎたという不満がありました。
しかし、幽斎の顔をみた途端、にんまり笑って、
「父には、かなわぬわ」とぼそりと一言。

九月二十一日、
忠興、田辺籠城の者たちへ手紙を出し、
苦労をねぎらい、戦功を賞します。

亀山の忠興のもとに家康から、
石田三成を捕らえたとの報が届きます。
関が原で敗れた三成は、農夫に身をやつし、
洞窟に潜んでいるところを田中直政の兵に見つけられたのです。

忠興からこの手紙を見せられて、
幽斎は、豊臣の時代が終わったことをしみじみ感じたのでした。

九月二十七日、
家康から福知山城攻めを一任されていた忠興は、
二千八百の兵で福知山城を囲みました。
意外と持ちこたえた福知山城ですが、
十月半ば、山岡景友が家康の使者として現れ、降伏を勧め、
小野木は、これを容れ数人の家臣とともに城を出ます。

家康は小野木の助命を命じましたが、
老父を狙われた忠興が承知せず、
十月十八日、小野木縫殿助は亀山城にて切腹したのでした。

第十八幕 終 (講談師:嵯峨根 俊文)

この後、幽斎は、大阪城で家康に面会。
幽斎は、関が原での戦勝を祝う言葉をのべ、
家康もまた、丁重に幽斎を扱い、田辺籠城の辛苦をねぎらい、
老齢にも関わらず決意を変えずに城を守り抜いた武勇をたたえました。

「望みの土地があれば、いずこなりとも取らせよう。」
上機嫌な家康の言葉を丁重に断る幽斎。
家康、重ねて勧める。

「それでは・・・」と、
遠慮がちに言葉を切った幽斎、
「田辺の寄せ手に加わった者のうち、
城内に心を寄せた者の領地を安堵していただきたい」と述べる。

家康、深く感銘しこれを許したと伝えられています。 
そして、幽斎夫人・麝香が
紅と白の粉で攻め手の様子を記した絵図が大きな役割を果たしたこと、
云うまでもありません。

忠興は、関が原の戦功により、
丹後十二万石から豊前国と豊後のうち二郡、三十九万石を拝領し、
幽斎には、別に六千石が隠居料として下されました。

又、公卿社会では、古今伝授の話がそこかしこで話題になりました。
戦いのさつばつ殺伐とした中にあって
和歌の伝統の絶えるのを恐れて
勅使を賜った幽斎の文芸の誉れは輝かしく、
田辺城開城は、
武家社会のなかで忘れられていた
天皇と公卿の存在をしめすものとなったのです。
                                 


                完

平成四年三月十一日 脚本 米山隆一朗
平成十八年四月 編集協力 舞鶴地方史研究会
参考文献
講談社発行  松本清張 著  「徳川家康」
舞鶴市郷土資料館編集 「舞鶴のあゆみ」
佐藤正夫氏解読 「丹後国田辺御籠城之聞書 全」
舞鶴地方史研究会 真下八雄 著 「「田辺籠城戦諸本について」
PHS文庫発行 春名徹 著 「細川幽斎」
講談社発行 隆慶一郎 著 「花と火の帝」
TOPへ戻る