門番 「殿。天皇様の」
門番 「勅使がこられました。」
幽斎 「お通しいたせ。」
門番「ははっ。」
(退席する。
入れ替わりに大石登場。)
|
|
|
|
大石甚助
「大石甚助にございます。
後陽成天皇様の勅旨を
持ってまいりました。
|
|
|
智仁親王様からも、
是非和睦されるよう
お願いしてまいれとの
お言葉でございました。」
勅旨の手紙を渡す。
|
|
|
幽斎
(勅旨を捧げて
拝礼してからひらく。
読み終わって。) |
|
|
「天皇様のお言葉、
また、智仁親王様のお心遣い、
まことに身に余る
有り難いことでござる。
しかしながら、
私はもはや必死の覚悟を
定めております。
西軍に攻められた上は、
武士として立ち向かう他ござらん。
どうか、天皇様・親王様に、
よろしくお伝え願いたい。
智仁親王様には、
古今和歌集の深奥を、
ほとんど伝授し終わって
おります。
残るところは、
私の覚書を差し上げますから、
よく読んでいただきたい。
それをもって、
古今伝授を終了したものと
いたします。
|
|
|
これがその証明書でござる。
源氏物語の書物を添えて、
お渡しいたします。」
大石甚助
「あい分かりましてございます。
幽斎様の御覚悟、
しかとお伝えいたします。」 |
|
|
|
幽斎
「甚助殿、
私の今の心境を和歌に詠みました。
これも添えて
差し上げていただきたい。
いにしえも今も変わらぬ世の中に
心の種を残す言の葉」(詠唱) |
|
|
|
大石甚助
「失礼つかまつる。
(詠草を受け取り、退席する。)」 |
|
|
|
|
|
慶長五年(1600)、七月十七日、
細川忠興婦人ガラシャ、石田三成の人質になるのを拒みが自害。
その直後、石田三成の軍勢は、丹後田辺城に細川幽斎を包囲しました。
幽斎六十七歳。
息子忠興は、奥州出陣中。
居城を守るは、婦女子と五百の城兵。攻め手は一万五千の大軍。
鉄砲、大筒が轟き激しい戦いとなりました。
七月二十七日、後陽成天皇は、幽斎にもしものことがあれば、
わが国の歌道がすたれると思われ、
八条宮を通じ、その家老の大石甚助を田辺城へ派遣。
敵との和睦をすすめますが幽斎は断ります。
しかし、歌道のことを考え、
「古今伝授の箱」、「源氏抄箱」、「二十一代集」と「古今相伝の証明状」に
和歌一種とを添えて、これを大石に託して宮中へ献上しました。
これが、
「いにしえも今もかわらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」、
烏丸光広卿へは、
「もしほ草かきあつめたる跡とめて 昔にかへる和歌のうら波」
を送ります。
宮中では、幽斎の決死の覚悟を聞かれ、
今度は、幽斎の弟の大徳寺・玉甫和尚に幽斎説得を依頼しますが、
幽斎の覚悟を知る和尚は、辞退しました。
そこで勅使は大阪の前田徳善院玄以に幽斎の説得を命じましたが、
幽斎は、これも断ります。
九月三日、
遂に三条大納言実条、中院中納言通勝、烏丸中将光広が使者として派遣され、
田辺城を囲む石田軍に対し
「幽斎は文武の達人にて、殊に古今伝授を伝えた帝王の御師範である。
いま幽斎が命をおとさば、世にこれを伝うるものなし。
速やかに囲いをとくべし」
と命じたため、石田軍も服従。
幽斎も勅使三度におよんだので勅命に従い、
城を前田徳善の子の主善に渡して主善の亀山城へ移ったのでした。
古今伝授というのは、歌道の奥義を伝授する最高の行事です。
これは、濃州の東下野守平常縁に始まり、紀州の種玉庵宗祗に伝え、
三条大納言実隆を経て知恩院公国卿へ伝えられましたが、
公国卿は重病で、その子の実条が幼少であったため、
幽斎へ伝えられたものです。
幽斎は、これを開城の前、
城中で、成長した三条大納言実条に古今伝授を行ったのです。
まさに、武を制した古今伝授、文の力でした。 |
|