前章 本能寺の変本能寺の
歴史の回り舞台が、きしみながら大きく回ろうとしている・・・・。
時は、天正十年 千五百八十二年
六月二日、払暁(ふつぎょう)
「敵は本能寺にあり」
備中へ向かったはずの明智光秀の軍勢が・・
天下の覇者信長は、紅蓮の炎の中で自害
六月三日
毛利攻めの先鋒勤めるべく細川藤孝・忠興親子は宮津城を発とうとしていた
「殿、京から米田求政(もとまさ)が使者 早田道鬼斎なる者、書状をこれに」
「惟任(これとう)光秀、逆心を企て、信長公本能寺にて御腹召され候。
二日朝、辰の刻、信長公御父子、御一門歴々討ち果たし・・・」
さしもの藤孝も読み進めるうちに青ざめていくのが自分でわかった。
「愚かなことを・・・」
藤孝は、忠興に向かい
「私は、髪を剃って信長公の多年の恩義に報いたいと思う。
しかし、お前は光秀とは婿・舅の間柄であるから味方しようがしまいが、心にまかせるがよかろう」
運命の皮肉さよ、忠興の妻玉(ガラシャ)は、光秀の娘であり、その仲人は信長であった。
父としての労わりであった。
涙を浮かべた忠興は、
「いや、たとい親戚の縁故があろうとも、どうして謀反人に味方できましょうか」
すぐさま藤孝は、忠興ともども髪を落とした。
羽柴秀吉らとの対決に備えて、光秀は、藤孝に
「御のぼり相待ち候(そうら)ひつる」などと、なんども協力を求め自筆の書状を送ったが、
藤孝は、ついに同調せず、忠興に家督を譲り、幽斎玄旨と号して田辺城に籠もった。
そして忠興は、妻玉を丹後の味土野(みどの)の山中に幽閉した。
六月十三日 孤立した光秀は、山崎の合戦で秀吉に破れ、
敗走の途次、農民の落ち武者狩りにあい五十七歳の人生を閉じたのであった。
十八年後、再び 歴史の回り舞台が きしみながら大きく回ろうとしていた。
田辺城籠城のはじまり
第一章「幽斎公 いざ籠城に候」 和太鼓協力:野村寺太鼓ワイワイ会 武者芝居協力:海上保安学校
時は慶長五年 西暦一六〇〇年 七月 大坂にて三成挙兵
家康に味方する細川を成敗せよと丹後国田辺(現舞鶴市)に兵一万五千を送る
迎えうつは、
上杉討伐の留守を預かる幽斎公、
国中の武器弾薬を掻き集め、兵を招集、その数 五百余名
ここに関ヶ原の戦いが終わるまで2ヶ月続く田辺籠城が始まる。
下記の場面は、
京から本能寺の変の報が届く
18年後
三成挙兵の報を田辺城に伝令
兵の招集を命じた幽斎、城門から国中へ伝令が走る
重臣(市長等来賓)が、籠城に駆けつける
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