舞鶴八景九 景 ヶ 浦
 絵:みもりあきら  文:山本公彦
                         

    題材は舞鶴に古くから伝わっております「田辺八景詩」をいただきました。
    ”丹後田辺に過ぎたるものは 鴇の太鼓の野田笛甫”と
    箱根峠の馬子唄にも知られています
    舞鶴自慢の「田辺八景と九景ヶ浦」でございます。
    丹哥府志 糸井文庫 舞鶴市史の文献よりそれぞれ参考にさせていただきました。
                        
                              ー 山 本 公 彦 ー 
  城園ノ春色
 
 大内の庄 今で言う田辺であります。
 和名抄には田辺の庄とございます。
 古名を八田といい 
 宮津へ六里 京へ二一里 
 江戸へ一四五里の位置にございました。

 「古も今も変わらぬ世の中に 
  心の種を残す言の葉」
 
 古今伝授の幽斎さま 細川藤孝は、
 天正五年の冬十一月 
 将軍信長の命を受けて
 丹後へ入りました。
 一色義道と戦って
 建部山を落とします。
 一色一族は、
 遁れて岩滝弓木城にくだり 
 これにより細川幽斎に従う丹後の兵 
 数多くあり
 以来 八田村の地を開いて 
 初めて平地に城郭を築き 
 この地を田辺と名付けました。
 
 因みに八田の人々は 
 由良川のたもと
 志高八田の地に移られました。

  「舞鶴風流まず第一は 
   古今伝授の幽斎さまよ
     残す心の種芽に出でて 
         じゃ桜も花盛り
   ほんにほんにさ 
       のほほんのほい」 
   平田ノ旅雁
 
 加佐郡田辺郷八田村及び
 円満寺村の地に築かれた田辺城は、
 北西部に城下町が造成されました。

 北に流れる高野川に
 大橋が架けられ 
 橋西と橋東に分けられた道幅は大層狭く 
 丹波・平野屋・竹屋の各町や 
 瑞光寺・桂林寺・本行寺・朝代口など
 各寺社は、
 いずれも二間半の幅で
 遠目遮断の丁字路が目立ち 
 高野川には大橋と京橋 
 城の堀には伊織殿橋と高橋 
 伊佐津川には二つ橋のみで 
 街道の基点は、
 大橋となっていました。

 京への街道は、
 城の大手門から本町を経て
 大橋を渡り寺内へ入り 
 新町で宮津道と別れて
 紺屋・朝代から京口番所を回って 
 京橋で再び高野川を渡り 
 八丁縄手から公文名・七日市
 そして山崎橋で伊佐津川を渡り
 真倉から何鹿を経て
 京へ上って参りました。

 今に見えます元稲荷市場北の大手川の石橋を「農人橋」と言いますが、大手川より南には秋の平田が十倉一宮まで 一面に広がっていたのでございます。

  圓隆ノ深秋
 
 慈恵山圓隆寺とは、
 俗に呼ぶ本堂さんです。

 山頂には、
 火の神様愛宕権現が奉ってあり
 町衆によく親しまれ手います。
 皇慶上人の開基とありますが、
 一説に田辺誇小太夫とも
 言われております。

 上人の徳を慕い 
 伽藍諸堂侭く備えておりましたが、
 大雨山崩れに会い 
 堂字が埋没 また火事に逢って
 伽藍が一切鳥有と
 化したこともあります。

 今の建物は
 牧野の殿様の再建です。
 昔に比ぶれば 
 十分の一と言いますが 
 本堂の傍らには護摩堂があり 
 薬師堂があり 
 観音堂も鐘楼も揃って
 山門には四天王が安置されて 
 山門の額は、
 伴壇右ェ門の筆跡でもございます。

 また三重の多寶塔があり 
 客殿庫裡よく軒を並べ 
 塔頭三院が逢連なって 
 仏像は皆 
 古へより大切に
 守られて来たと言われます。

 紅葉真っ盛りの
 本堂さんへご案内いたしましょう。
 
 
桂林ノ夜月
 
 天香山桂林寺は、
 竺翁和尚の開山で 
 元は洞林寺と言いました。

 佐武ヶ獄城主 坂根修理亮の治世に
 寺領三十石を與えられ 
 寺号を桂林寺と改めました。

 細川藤考孝が田辺入城の折には、
 一色氏の残党を嫌って 
 寺領を没収されます。
 慶長五年秋小野木縫殿介が
 田辺を包囲 
 大渓和尚が
 丹後五郡に檄を飛ばして 
 曹洞宗一派の僧徒を掻き集め 
 織り金の袈裟に
 「降伏一切大魔最勝成就」と
 願を掲げ 
 弓矢を取りて寺門に出で立ちました。
 玄旨法印細川幽斎 
 之を大手に置いて城を固めて 
 恩賞として三十石の寺領を戻しました。

 傍らに鎮守八幡の社があります。寺に先立つこと凡そ五十年余り前の勧進です。

 桂林寺に似つかわしいのは、東山佐武ヶ獄に出る満月でございましょう。
 
  市橋ノ夏涼
 
 田辺の御城 この御城下は、
 見付門が町の入り口にも
 又出口にも無く 
 よく見れば 
 出口の右手に大手門があります。
 お城は待ちの片脇になりまして 
 大手は若狭街道の右手に見えます。

 「殿様はどなたか」と尋ねますと
 「牧野豊前守の御知行三万五千石」と
 答えてくれました。

 ちょっと見させて貰いますと
 この殿様は甚だ貧乏と見えます。
 大手口も甚だむさくるしい様子です。
 大手御門を右に見て
 十丁ばかりも
 左が藪で右手は畑。

 城をぐるりと回ってゆきますと
 在所の入り口となります大内に出ます。
 此処はまだ
 御城下の内でございますが 
 左手にえびすや政八と申す
 綺麗な宿屋とお休み所があります。
 その先半丁ばかりには
 右と左の二つ道があります。

 若狭へは外道左へ行きます。
 案内の立石もあります。
 是より一里で清道へ出ます。
 此処には休み場だけで宿はありません。
 この間の道のりは長いですが、
 平地ばかりでございます。

 そして峠を越せば浜村へ入ります。
 
   漁灯ノ麗網

 妙法寺望楼。
 上に静座して 九景浦 千々見の浜 
 山水を清玩すれば  
 門外に鶴城の市街連なる。

 山のただ住まい 水の流れ 
 自ずから天然に備わり。
 伊佐津・高野川尻落ち込みて 
 汐の満干の濃やかに。

 五老の日出 三岳の残月。
 浜辺の海士が漁り終え 
 千尋の網干しに 
 鷺鴎の遊ぶあり 漂ふあり。

 夜となし昼となし 
 行き交う帆舟は 横波を被り。
 花の匂崎も 
 葉若葉におい移れば
 大丹生山に霧込めて 
 やや雁渡る小富士の空。

 雪翁の年取り島は、
 昔 玄旨の君 幽斎ゆく年を
 惜しみ給いしとか。 
 かかる景色のある限り、
 明け暮れおもてなし。

 あたりに響く鐘の音まで
 風塵を払いて 
 松柏の長く久しき 
 山陰の妙なる眺めなれば

 「うみ見えて 
  すすしき寺の すまい哉」でございます。
  建部の霽雪

 丹後州加佐郡建部山。
 北壌の壮観にて 
 一府の藩鎮なり。
 その形駿州の富士を縮め 
 江州の三上山に合うなり。

 東鑑を引きて曰く

 足利義氏の子泰氏 
 丹後守に任ぜられしが
 素より遁世の志あり。
 剃髪して僧となり
 平石殿と称され 
 是より後を
 一色氏の始祖として 
 加佐郡建部山山上に築き 
 代々是を居城となす。

 吾が丹後に城跡と称するもの
 凡そ八十五ヶ処になりしが 
 皆 山城であり平城でなし。 
 即ち元亀天正時代以前において 
 すべて 山城のみと見えし。
 信長公 起りてより 
 城郭に甲冑に また刀剣にも 
 凡そ天下の武備一変せり。

 丹後も亦然り 細川藤孝の来りてより 
 皆平城となれり。
 ご案内いたしましょう 
 丹後富士建部山でございます。
 
  霧海ノ柴舟

  「丹後田辺に過ぎたるものは 
        鴇の太鼓と野田笛甫」

 田辺が生んだ博才 野田希一は 
 江戸昌平坂学問所に学び 
 牧野藩二百五十石家老として 
 藩学の刷新と海防の推進を為し 
 また明倫斎学識の長を務め 
 名勝舞鶴湾を九景浦と名付けました。
    
 「五老峰朧月 洲崎退潮 芦原曝網

  二翁崎漁舟 十州晴旭 三岳落霞

  四所浦浴鴎 喜多村漁火 小芙蓉霽雪」

 田辺ご城下の情緒は田辺八景に 
 舞鶴湾の美しさは九景浦に 
 昔を今に 
 その名残りを留めているのでございます。